Génération de roses

第12回 イタリアが僕にくれたもの③

蜂谷雅彦 カマクライフ

鎌倉暮らしやイタリア生活で出会ったあれこれをお届けしているこのコラムですが、昔を振り返って、僕がアパレル業界に足を踏み入れてからイタリアに渡り、帰国して今に至る経緯についても少しずつお話ししていきたいと思います。

題して、「イタリアが僕にくれたもの」。

コラム内シリーズとして不定期にお届けしますので、時代の空気を感じ取っていただけたらうれしいです。
今回はその第3回です。

営業マンがデザイナーに転身したその訳は? その2

前回は、円形脱毛症治療のため1ヶ月の長期休暇を社長に直談判、それをすんなりと容認されたところで話が終わりました。今回はその続きです。時代はバブル期、1987年でした。

入社後半年が経ち、営業担当を任されました。自分の担当は北関東から長野、静岡、そして都下の取引先と、渋谷西武、丸井のフランチャイズ店でした。見よう見まねで、わからないなりにもがむしゃらに頑張っていたのを覚えています。

「今の給料じゃ暮らせません!」と言った結果……

大汗の直談判から程なくして給料日がやってきました。渡された封筒の中を覗くと、手取りで5万円アップ! 25%増です。自分も給料を渡す立場になってから理解できたのですが、これはやはり異例です。
うれしさよりも驚きが先に立ってとまどっていると、また社長室に呼ばれました。

今まで前を通ることさえ怖かった社長室に出向くと、社長は開口一番、

「蜂谷、お前どっか行ってこいよ」。

何を意味しているのか全くわかりません。これは、答え方によっては地雷を踏んでしまいます。私は、彼の思っている方向を慎重に予測して答えました。

「どこかとは、ヨーロッパとかですか?」

「そうだな。どう?」(まんざら間違えてなかったようです)

「お気持ちはありがたいのですが、今ヨーロッパで洋服なんか見たら、さらに毛が抜けちゃいます。すみません」

「そっか」

そのときはそれで社長室を後にしたのですが、その1週間後またお呼び出しです。

「蜂谷、ハワイでも行ってこいよ。」

「(驚き)ハ、ハワイですか?」

「そうだよ。会社が金出してやるから、ゆっくりしてこいよ」

「(しばらく考えて)ハワイへは行けません。(上司である)営業部長でさえも海外出張へ行っていないのに、私が会社のお金でハワイなぞいけません。もし行ったら、会社にとっても良い前例とはならないと思います」

「なんだよ、こっちがこんなに心配してやってるのに!」

今だったら「そうですか〜」って平気で尻尾振って行っちゃいますが、まあよくもこんな啖呵を切ったものです。実はそれまでに家族旅行などで何度もハワイへは行っていて、若気の至りで「ハワイ旅行なんかダサい」という心境だったのと、バリ島旅行が待っていること、そしてこのオファーを受けたら将来虎の穴から抜け出せなくなる!という直感からの発言だったと今は思います。

年度が明けた3月5日、決算賞与の支給日がきました。バブル期はこんなものがバンバン出ていたのです。封筒を開けるとなんと100万越え! 人生においてそんな金額を一度も見たことがありませんでした。冬のボーナスの倍近い金額でした。

結果的に、最初の社長室での会話は全て満額以上の回答を得た形となり、もう虎の穴からは抜け出せない状況になったわけです。

 

社長から渡された封筒に入っていたものは

3月31日、翌日から1ヶ月休みを取るので、社長室を訪れました。ここをノックするのも、もうだいぶ慣れてきました。

「明日から勝手ながらお休みいただきます」

「おぉ、休み中どっかで会える?」

「前半は治療に専念するので、4月10日の午後以降でしたら大丈夫です(バリ島旅行は秘密です)」

「じゃあ、4月10日の3時はどう?」

「はい、大丈夫です」

「会社に来れる?」

「いえ、休み中なので会社へは来ません」

「(社長、ニヤッとして)じゃあ明治屋のモルチェでいい?」

「わかりました」

若い時の発言って、怖いもの無しですね。小さい権利を主張していたようです。

バリ島から真っ黒になって帰ってきた4月10日の朝、完全にお腹をやられてしまっていた私は、病院に寄ってから約束の時間にモルチェに向かいました。

時間通りに着くといつも遅刻の社長がすでに席にいました。
挨拶もそこそこに大慌てで席に着くと、社長がテーブルにA4版大の茶封筒を置きました。

「中、見てみて」

封筒の中からは、その当時のIATAの飛行機チケット(カーボン綴りのやつ)、ホテルクーポン券、書類、旅行のチラシのようなものが出てきました。

その中に旅程表のようなものがあったので、それに目をやると、自分の名前の下にパリーロンドンーミラノのスケジュールが印刷されていました。2日後に出発して、4月23日の帰国となっています。

ポカンとしていると、

「パスポートある?」

と聞かれました。

「はい……」

二の句が継げず口を開けたままにしていると、

「君には出張に行ってもらうから」

「帰ったらデザイナーね」

「ヨーロッパでいいもの見て来て。みんな忙しいから一人で行ってもらうけど、ごめんね」

矢継ぎ早に重大なことを聞かされました。

青天の霹靂とはまさにこのことです!

当時24歳。
バリ島の新カルチャーの思いに浸っていた直後に、翌々日出発の初のヨーロッパ出張、それも一人! 挙げ句の果てに帰国したら、デザイナーとは!
目の前で何が起きているのか、まったく消化できませんでした。

「どう?」

「デザインの勉強はしたことないのですが……」

「大丈夫、君はセンスあるみたいだし、学校なんて技術は覚えられても、センスは教えてくれないから。センスはそもそも天性のものだから」
「どこの学校も夜のコースがあるから、好きなのをとってそれに行くといいよ。会社が費用は出すから」

その後、促されるままにABCブックセンターに社長と行き、JAL編集のパリ、ロンドン、ミラノの地図を購入。隣の喫茶店で、社長が1都市ずつ行く場所を地図に書き込んでくれました。

私はその地図と一緒に、抗生物質を飲みながらヨーロッパ旅行に出発しました。
帰国後はバンタンデザイン研究所のデザインとパターンの夜間コースを取り、ファッションデザイナーとしての一歩をスタートしたのでした。

これが、営業マンからデザイナーに転身したくだりとなります。

 

〜次回へつづく

意外な展開でデザイナー修行をしていた頃・展示会にて

Author 蜂谷 雅彦(Masahiko Hachiya)
大人のためのコンフォート、ジェンダレス、エイジレスな服を提案する「HACHIYA」デザイナー。
アパレル駐在員として長くイタリアに在住し、帰国後はグッチをはじめとするハイブランドのマーチャンダイジングを手がける。
現在は、デザイナー、ライフスタイルコンサルタントとして活躍しつつ、海を望む鎌倉の家から、サバーバンライフを発信中。

HACHIYA online
https://hachiyaonline.com/

Instagram
https://www.instagram.com/ipermasa/
https://www.instagram.com/hachiya_online/

HACHIYA CHANNEL
https://www.youtube.com/channel/UCrWxUwF5bVGyds2a2BH9Z5A