第13回 イタリアが僕にくれたもの④
鎌倉暮らしやイタリア生活で出会ったあれこれをお届けしているこのコラムですが、昔を振り返って、僕がアパレル業界に足を踏み入れてからイタリアに渡り、帰国して今に至る経緯についても少しずつお話ししていきたいと思います。
題して、「イタリアが僕にくれたもの」。
コラム内シリーズとして不定期にお届けしますので、時代の空気を感じ取っていただけたらうれしいです。
今回はその第4回です。
デザイナーがイタリア駐在員に転身したその訳は? その1
デザイナーとなって3年と数ヶ月過ぎた1990年の9月。時代はバブル景気最後の年となる。
一丁前にパリとミラノの生地展を回って帰ってきたばかりのある日、デスクで仕事をしていると部長から声がかかった。
部長「蜂谷、社長が今晩会いたいって言ってるけど、何か予定入ってる?」
蜂谷「え、部長も一緒ですか?」
部長「蜂谷一人だよ。」
蜂谷「え、なんでですか?」
部長「知らない」
蜂谷「うそ、知ってるでしょう?」
部長「知らねぇよー。どうすんの、今日行けんの?」
蜂谷「社長の誘いなら、他に予定が入ってても絶対ですよね? 大丈夫です」
人はそう簡単に成長するものではない。
上司に対する口の聞き方も、社長に対して畏怖の念を抱く事も、入社当時から何も変わってなかった。
広尾商店街にある居酒屋に6時に呼ばれた。
何かで怒られるのだろうと、下衆の勘繰りを入れながらそこへ向かった。
時間ちょうどに店に着く。
前に述べた通り、社長はいかなる約束も時間通りに登場することは無かったので、当然じゅうぶん間に合うはずの時間だった。
ところが暖簾をくぐると、そこにはもうすでにカウンターで一杯やっている社長の姿が!
慌てて席につき、社長と同じ飲み物を店の人に頼んだ。
社長「おぅ、元気? 急にごめんね」
蜂谷「いえいえ……」
社長「この前、ベルギーでめちゃくちゃいけてるデザイナーと知り合ってさ、彼の家に呼ばれたんだけど、もうめちゃくちゃおしゃれな家で……」
いつものように、脈絡のない、自分だけが知っている話の断片を、さも「おまえも知ってるよな」というテイで切り出してきた。
いきなり聞いたら珍紛漢紛だが、まあこの手の会話をすり抜けられる術は5年の社歴でどうにか体得していた。
その後もお互いのヨーロッパ出張でのよもやま話は続いた(どうも怒られる気配はなさそうだ)。
あくまでも憶測だが、その当時の社長は一緒に行く相手と、話の内容によって、店を使い分けていた。 一社員とのたわいもない話なぞは商店街の居酒屋で、ホッピーでも傾けれながらでいいのだろう、と踏んでいた。ただ社長とサシということで、飲めない酒はいつもより進んでいた。
社長「なんかお前、今日飲むねぇ?」
蜂谷「いや、社長と一緒ですから、緊張で飲むしかありません」
社長「そっか、じゃあ酔っ払う前に本題の話をしなきゃな」
蜂谷「はぁ……(やはりただのただの与太話とはいかないか……)」
社長「じゃあ、ここは出よう」
蜂谷「あ、はい」
いそいそと身支度をして、彼は店の前でタクシーを停めた。
社長「六本木。飯倉から回って」
程なくして車は目的地に着いた。
重厚な店の扉を開けると、広い一枚板の長いカウンターが目に入った。 バーカウンターの背後の壁は鏡ばりで、そこにしつらえられた棚には高級そうな酒のボトルが所狭しと並べられていた。
促されるままに高いスツールによじ登ると、社長が言った。
「何飲む? 俺のコニャックもあるけど?」
「じゃあ、同じので」
もちろんコニャックなぞ飲んだことはなかった。
蜂谷雅彦・御年28歳、まだ汗ばむ陽気で、9月とはいえ夏の気配を残していた夜だった。
〜次回へつづく
バブル真っ只中、社員旅行でグアムに行った時の写真。豊かな時代でした
Author 蜂谷 雅彦(Masahiko Hachiya)
大人のためのコンフォート、ジェンダレス、エイジレスな服を提案する「HACHIYA」デザイナー。
アパレル駐在員として長くイタリアに在住し、帰国後はグッチをはじめとするハイブランドのマーチャンダイジングを手がける。
現在は、デザイナー、ライフスタイルコンサルタントとして活躍しつつ、海を望む鎌倉の家から、サバーバンライフを発信中。
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